2018年1月30日火曜日

『太陽と乙女』(森見登美彦)読みました。


今出ている文庫本だけ読んでおこうとして、
それだけじゃおさまらなくなり、
新刊の単行本にも手を出すようになった
伊坂幸太郎さんのあれやこれやの作品。

エッセイなど小説以外は除いて、
たぶんほとんどを読破しちゃいました。
(内容は覚えてないけど)

その伊坂作品で毎回のように
唸らされるのが、絶妙な構成です。

どこかの映画のように、
本筋から少し外れたシーンが唐突に挿入されて、
「なんじゃそれ、関係ないじゃん」
って思ってたら、
クライマックスに押し込むための伏線だった。
──なんて無理くりの物語づくりは皆無で、
「わーっ。あのしっぽりはまってた、
 ほんわかエピソードが、ここにつながるのか」
と、唸るわ、ニンマリするわのオンパレード。

あんな話をつくるとき、
その場その場の思いつきだけで
書き続けていくのだとしたら、
著者の脳みその回路は
宇宙空間とつながっているはずです。

でも、それは物理的に無理なので、
書き始める前に、きちんと構成を組み立て、
設計図みたいなものを用意してから、
執筆しているんだと、
ぼくは勝手に想像しています。

で、この『太陽と乙女』。

著者の森見さんは、伊坂さんとまったく違う
物語のつくり方をしているんだろうなと、
ぼくは勝手に想像しちゃいました。






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2018年1月25日木曜日

『もひとつ ま・く・ら』(柳家小三治)読みました。


みんな、人の話を聞かねぇ……。
最近、飲み会などに出席して
気がついたことです。

一言二言でやりとりするLINEのように、
しゃべることが短いときにはいいんです。
聞いてくれるんです。

でも、少しでも長くなるとダメ。

背景を説明しないと
内容が伝わらない場合なんか、
本来なら〈背景→結論→落ち〉と進めるハズが、

背景の「はい」ぐらいで、調子いい野郎が
「あー、それ知っている知っている」
とかって合いの手を入れて、

それが合いの手だけじゃ済まなくなり
「知ってるよ、俺なんかサー」
と自分の体験談をしゃべり出し、

そうかと思うとその体験談の「たいけ」くらいで
また別の女史が
「ソレ違うわ。この前、職場の子がね…」
なんて、梅干し入れたお湯割り焼酎なんかで
喉を潤しながら続ける。

そうなるともう、
自分が〈背景→結論→落ち〉で
何を話そうとしていたのかなんて忘れて、

女史が手にしている耐熱グラスを眺め、
店員さんに
「ぼくも、梅干し入れたお湯割りひとつね」
なんて大声出していたりする。

ま、そんなモンですね。人が集まったときは。

で、この『もひとつ ま・く・ら』。

柳家小三治さんの落語に入る前の枕話を
そのまま載せた本。
噺家さんなら、いくら人が集まったとしても、
誰にも邪魔されずに、
自分の話を続けられるってことがわかりました。
オモロイです。





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2018年1月23日火曜日

『忘れられた巨人』(カズオ・イシグロ)読みました。


少し前、著作が話題になっているとかで、
テレビのニュース番組に
作家の五木寛之さんが出ていました。

『孤独のすすめ』という本が売れていて、
インタビューに答えて、その内容や、
五木さんが最近考えていることなどを
話していました。

内容を全部覚えている訳ではないのですが、
そのほとんどが、世間でよしとされ、
広く受け入れられているような
流行り物についての疑問
……だったような印象を受けました。

例えば、不要なモノをどんどん捨てて
身軽になろうの〈断捨離〉。
別に捨てなくもいいじゃない。
ため込んでそこらにほっぽらかして置けば、
何かの拍子に役に立つことだってあるんだし。

例えば、前向きに明るく
どんどん行こうの〈ポジティブシンキング〉。
人それぞれなんだから、無理矢理に
いろんなことに挑戦しようなんて思わなくても大丈夫。
外に向かわなくても、自分の内側を見つめるものいいもんだ。

……と。
その五木さんの考え方に刺激され、ぼくも、
世の潮流に逆らうようなことを考えてみました。
〈記憶力〉です。
そんなもんないほうが幸せだってこともある。
記憶がなけりゃ、誰かにおカネを借りたことも
すっかり忘れられて、思い悩むことはないし。

で、この『忘れられた巨人』。

竜の吐く息が、人びとの記憶を
ぼんやり奪っていく設定が好きです。
あと主人公の老男性が自分の妻を
いつも「お姫様」と呼んでいるとこ。





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2018年1月18日木曜日

『バッタを倒しにアフリカへ』(前野ウルド浩太郎)読みました。


去年の暮れに読んだ
『井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室』
の中に、こんなことが書いてありました。

〈不幸にして日本の作家、学者たちのなかに
 ──とくに学者は相当多く、
 作家はさすがに少ないんですが──
 だれにでも書けることを、
 だれにもわからない文章で
 書いている人がいるんですね〉

なかなか手厳しいんですけど、
これ読んでいて思わず
「うん、あるある」と
相づちを打っちゃいました。

(このブログで、何かの文章を引用するときは、
 底本を引くのが面倒で、
 ほとんど記憶からの要約で済ませちゃうんですが、
 今回はすぐ手元に、この本が目についたので、
 きちんと写しました。
 入力ミスがなければよいのですが)

さらに続けて、

〈その文章、難しくて、訳がわからなくて、
 やっと読み解くと、実にくだらない、平凡な
 「そんなこと俺だって考えているよ」
 といった中身〉

とありました。うんうん。あるある。

で、この『バッタを倒しにアフリカへ』。

著者は、学者さん。
井上ひさしさんが注意してくれた文章を、
書いてしまうことが多い職業の人。
でもでもでも、この本は、
本当のホントに例外でした。
すんなりちゃんと読めちゃいます。面白い。





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2018年1月16日火曜日

『プリズンホテル(4)春』(浅田次郎)読みました。


出版物を印刷にかける前には、
複数の人が原稿を読んで、
ヘンなところがないかチェックします。

誰かに「ここはおかしい」と
赤ペンを入れられたとき、
書いた本人であるぼくは、
「そんなことないよ」と
思うこともあります。

でもたいていは、
一人が疑問に感じた部分は、
他の人も同様に考えるようです。

最初にチェックした人と同じ箇所に、
まったく同じコメントで
次の確認者も赤ペンを入れてくる。

やっぱヘンテコな文章は、
みんなわかるようです。

わからないのは、
視野狭窄状態でペコペコと
キーボードを叩いて
文字を連ねていった自分だけ。

そんなときは、いつも
「もっと冷静に、謙虚にならないかん」
とぼく自身に言い聞かせます。

で、この『プリズンホテル(4)春』。

うまいですね。面白いですね。さすがですね。
でも、1箇所だけ、
ぼくが疑問に思った設定があり、
それはみんなも同じに感じるのかなって
立ち止まりました。

もしかしたら、
その疑問自体、
ぼくの視野狭窄なのかもしれませんが。





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2018年1月12日金曜日

『かぜの科学』(ジェニファー・アッカーマン)読みました。


娘がまだ小さかった頃(3歳くらい)
何度か喘息のような症状が出て、
病院に連れて行ったことがありました。

大きくなってからは、
まったくそんな状態になることはなく、
完治したのか、もしくは喘息と思ったこと自体
ぼくの勘違いだったのか、とにかく今は
元気ハツラツ立派な社会人になっています。

その幼き頃の病院に行ったときの話です。

そのときは、
なぜかぼく一人の付き添いでした。
(たぶん、カミさんは、仕事か、
 もう一人の娘を家で見ていたんでしょう)

診察室では、
息苦しそうにしている娘をヒザに抱え、
服の裾をたくし上げて、
胸や背中をお医者さんに診せたりしました。

先生は、そこに聴診器をあて、
フムフムとか言ったあと
「じゃあ、吸入しましょう」
と看護師さんに伝えたんです。

娘が吸入器の置いてある
隣の部屋に連れて行かれると、
先生がぼくに向かって

「大丈夫ですね。気のせいでしょ」

と言いました。

「吸入はただの蒸気にして
 薬は何も入れませんが、
 それで気が紛れて落ち着くでしょう」

おいおい、そんなんでいいのかよ
とは思ったものの
向こうの部屋をのぞいてみると、

ただの蒸気を吸いながら、
これまでより楽そうにしている娘を見て、
ああ、そんなんでいいのか
……と納得しているぼくがいました。

で、この『かぜの科学』。

風邪という病気は、現代の科学をもってしても、
よくわからないものだってことが、
よくわかりました。





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2018年1月10日水曜日

『たゆたえども沈まず』(原田マハ)読みました。


どんなことを提案されても、
「それイイですね!」
と、お愛想しか言わないぼくは別として、

一般的に本を執筆した人は、
それを売ってくれる出版社に対して、
どれくらい注文を
つけるもんなんでしょうか。

印税の割合とか、最低保証部数とか、
おカネにわかわることは、
ぎすぎすチックになるので、
その方面の話じゃなく、

宣伝方法とか、
広告に使うコピーとかの、
その方面での疑問です。

例えば、出来映えが
それほど自信のない作品だったとき。

それでも売ろうとする側は、
著者の気持ちを素直に反映して
「完成度はイマイチ」
なんてコピーを帯につけるわけはなく、

どんなに失敗作だと
著者が感じていようが
「感涙必至の大傑作」
とかビックマウスの売り文句をつける。

それに対して、
著者は何て言うかなって思ったんです。

もちろん、ぼくなら
「それイイですね!」です。

自分では、ちっとも泣けずに、
1ナノメートルほども
傑作とは思っていなくても、
ほかの人は違うように感じる
かもしれないし。
なんて屁理屈を自分に言い聞かせながら。

で、この『たゆたえとも沈まず』。

広告に「アート小説の最高傑作、誕生!」
って書いてありました。
著者さんどう思ってるのかな。
「それイイですね!」かな。





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