2011年8月24日水曜日

慣れさせたいときは「面白い」

『Xの悲劇』(エラリー・クイーン)読みました。

音楽を聴きながら、原稿を書く人って結構いますね。
でも、ぼくはそれができません。

レイアウトの作業とか、
イラスト・図版なんかを描いているときは、
どんなに音楽がかかっていても大丈夫なんですが、
文章をつくっているときはダメなんです。

例えば、エコ関係の記事を書いているとき、
『リンダリンダ』なんかが流れていると、
「地球の自然は、どぶねずみです」って書いちゃうんです。
それであわてて削除ボタン。
音楽に反応して指が勝手に動くんです。これでは、先に進めません。

んで、書いているときほどでもないんですが、
読書のときも同じように音が邪魔します。

目に入ってくる文章と、耳から入ってくる音が混じって、
頭の中がぐちゃぐちゃになり理解が進まない。

通勤のバスの中で、
「次は、ペンギン村です。止まります」とかの
アナウンスもそれなりに障害なんです。

でも、人間って不思議なもんで、
ダメだと思っている環境でも、
何度も繰り返しているうちに慣れてくる。

最近では、バス内のアナウンスなんかぜんぜん聞こえず、
読書に没頭できちゃう時間がだいぶ長くなってきました。

特にこの本『Xの悲劇』。
降りなきゃいけない停留所を
何度も乗り過ごしそうになりました。

環境に身体を慣れさせたいってときには
「面白い」という要素が、効くみたいですね。

今度、原稿を書く仕事で、
心の底から面白い!って思えるものが出てきたら、
音楽流してみようかな。

そうやって身体を慣れさせていけば、
どんな環境でも原稿が書ける、強靱な指がつくれるかもしれないし。

そのとき流すのは『ボヘミアン・ラプソディ』かな。
クイーンつながりってことで……おあとがよろしいようで。

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2011年8月15日月曜日

忘れたころに、繰り返し。

『宇宙は本当にひとつなのか』(村山 斉)読みました。

「あっ、それってやっていいんだ!」ってこと、
また一つ、教わっちゃいました。

何かっていうと、
同じ本の中で、同じ内容のことを何度も書くことです。

今まで、ぼくが本をつくるときは、
同じ内容を繰り返して書かないように気をつけていました。

どうしても書かないといけないときは、
「○○ページでも触れたように」とか、
触りだけ書いてあとは、「○○ページ参照」という印を
つけたりしていたんです。

誰かに「同じこと書いてはいけないよ」
って教わったわけでもなく、
そんなルールがあるわけでもないんですけどね。

なぜかそれをやると、
ページがもったいないとか、
手を抜いている感じがするとか、
気が引けてきちゃうんです。

でも、ぼくのつくっている本は、
ほとんどが教科書のようにガリガリとノートを
とりながら勉強する内容でもないし、

ささーと読んでもらって、
その中の主だった情報だけ、
読む人が受け取って残してくれればいいものだから、

サクっと理解を深めるには、繰り返すのって結構いい。

○○ページ参照とかいわれて、
前のページに戻るのも、面倒だし…

なのでこの本は勉強になりました。
繰り返しを乱用してるわけじゃなく、
ちょうど忘れたころにタイミング良く出てくるトコも
孫の手的(かゆいトコに手が届く)です。

で、もう一つ、この本を読んで思ったこと。
人間は「なぜ」に対する答えを
まったく見つけていないんだなってこと。

「こういう仕組みで存在している」とか
「こんな計算式に則って動いている」ってことは
どんどん解明されてるみたいだけど、

でも、
「なぜその仕組みなの?」「なぜその計算式なの?」
って質問には答えてない。

わかっちゃいけないモノなのかもしれませんね。


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2011年8月2日火曜日

ちょうどいいです。

『折れた竜骨』(米澤穂信)読みました。

ぼくは今、
自宅から会社までの約5キロの道のりを
ランニング通勤しています。

始めてからまだ5カ月ほどなので、
まだまだつらいです。

いつも途中でくじけそうになって、
「歩いちゃおうかな」とか
「バスに乗っちゃおうかな」なんて考えが
頭をよぎります。

でも、最近になってときどき
「あれ? 今日はそんなにきつくない、
いつもよりは楽ちんだ」
と思える日がちらっと出てくるようになりました。

走りのつらさに慣れてきて、
約5キロのランニングが体力的に
ちょうどいい長さになってきているんでしょう。

この「ちょうどいい長さ」って大切です。

本を読んでいて、
なんか内容がだれてきて
つまらなくなってきたなーと思い始めたトコで、
場面が転換されて「うおッ」って感じたり、
ウンいいよもっとこの会話続けてほしいって
思っている間だけ会話の場面が続いていたり、
ときには
「えッこのシーン、何でここで終わっちゃうの」と感じても、
後のほうで、
伏線なりなんなりのフォローをしてくれたり……。

その感じ方は人それぞれだと思うんだけど、
たまにぼくが感じる「ちょうどいい長さ」に、
ぴったりはまる作品に出会うことがあります。

それがこの『折れた竜骨』。よくできてました。

比較するのはとってもおこがましいんですが、
ぼくのようにその場で思いついたことを
何も意識せずペコペコと打っていく文章のつくり方とは、
きっと違うんだろうなって感じました。

きちんと作戦を立てて計算してつくってるんだろうな。拍手。


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2011年8月1日月曜日

予備知識は必要ですか?

『ヴァンパイアハンター・リンカーン』
    (セス・グレアム=スミス)読みました。

予備知識はあったほうがいい場合と
ないほうがいい場合とがあります。

辞書で「予備知識」を調べると
「事をする前に知っておく必要がある知識」って
書いてあるので、言葉の意味からすれば、
なくちゃダメみたいなんですけどね。

もう20年くらい前になると思いますが、
編集の会社に勤めていた頃、
社員旅行で香港に行ったことがありました。

そのとき、
他の仲間はちゃんと予備知識を仕入れていたようなんですが、
ぼく一人、香港のホの字も知らず、
そこが日本からどれくらい離れているかも勉強しないで、
くっついて行ったんです。

その旅行には、
いろんな観光スポットをバスで巡る行程も含まれていました。

いつくか観光地を見たあと、
バスガイドさんが「はいクーロン城に着きました」と言いました。
なにやらクーロン城はもうすぐ取り壊される予定で、
周りに柵が張り巡らしてあるものの、
その姿はもう見られなくなるから、
記念に写真を撮っておくとよいとのこと。

少しバスを止めるので、写真を撮ってこいと言われ、
みんなバスを降りて、その場でハイ・チーズ。

何枚か写真を撮ると、すぐにバスに乗り込み、
次の場所へ向かいました。

「えっ、でもちょっと待って!」
ぼくはみんなに言いました。

「今写真撮った場所のドコにお城があったの?」
コンクリの固まりをごちゃぐちゃにくっつけただけの蟻塚みたいな、
鳥の巣みたいな、ガウディさんのつくった建物に
いくつもの大砲を撃ち込んだみないな建物群の周りに
工事中の囲いがしてあったけど、

お城らしきものは何もなかったじゃない!

「お前、何でそんなことも知らないの!?」
みんなは、そんなふうに言いました。

今更ならがらWikipediaで調べてみると、
ぼくらが社員旅行した頃は、
一般的にクーロン城といえば、
クーロン城砦跡地に建てられた巨大なスラム街のことを
指していたそうです。

香港を訪れる観光客なら、
一度はパンフレットやらチラシやらで目にしているはずだと、
みんなは軽蔑を通り越して驚愕って感じでした。

さて、この場合、予備知識はあったほうがよかったのか。

予備知識があれば、廃墟のスラム街を見たとき、
「ほーっこれがクーロン城かぁ」って感心できたかもしれません。

でもそうじゃなかった。

そうじゃなかったから、
みんなから軽蔑オーバーの驚愕の視線を向けられ、
それがいつまでも印象に残って、
こうやって20年ほどたった今でも思い出して文章にできる。

予備知識があった場合は一瞬の感心だけで、
そんなに思い出には残らなかったでしょう。

で、この『ヴァンパイアハンター・リンカーン』。
どこかの書評につられて読んだのですが、そこに、
巻末につけられている解説にはネタバレ部分があるので、
決して先に読まないように
という注意が書かれてありました。

ぼくはその注意を守り、
ふだんなら途中で読んでしまう巻末の解説を
一番最後に読むようにしたんです。

でも、そこに書いてあったのは
たいしたネタバレの内容じゃなかった。

つまりは、この書評にあった予備知識も
必要なかったってことです。

わっ、いけない! 
ぜんぜん本の内容に触れずにこんなにたくさん書いちゃった。

まあ、いいか。
これから読む人がいたら予備知識はないほうがいいですものね。


ヴァンパイアハンター・リンカーン
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